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長崎原爆ダークツーリズム〜被爆少年少女追悼之碑

浦上川沿いの城山みどり公園内に被爆少年少女追悼之碑が建っております。

所在地:長崎市城山町10城山みどり公園内

建立年月日:昭和53年5月16日

管理者:被爆少年少女追悼碑建立委員会

建立の経緯

被爆前の城山地区は戦前から静かな新興住宅として、浦上川に面した安らぎのある場所でした。

しかしながら昭和20年8月9日、一発の原子爆弾によって校区内の子供達約1,400名が息絶えていった。

城山小学校内には原爆殉難者之碑を建立してあるが、まだ学校外には子供達の碑は建っていなかった。

その日は夏休みであったが、都心部の子供たちのように集団疎開もなく、長崎市城北部一帯に林立する軍需工場の谷間で空しく焼死した。

戦時下とはいえ、全く理由のない死を余儀なくされた少年少女達の冥福を祈るとともに、子供たちの受難の歴史を書きとどめ、当公園に遊びにくる子供たちに命の尊さと人間を大切にする心が自然に育っていくことの願いを込めて建立されたものである。

碑文

昭和二十年八月九日十一時二分史上最も凄惨な攻撃目標となった松山町の地上五百メートルの上空で一発の原子爆弾がさく裂したその瞬間強烈な熱線と破壊力により地上は死の都と化し、長崎市民十五万人余が殺傷されかろうじて生き残った人々は目の前の川に水を求めて死に絶えた

戦争の激しさとともに飛行機は日夜来襲しその日に空襲警報の解除をまって家をとびだした子供たちや川えびやうなぎのすむ浦上川に魚を求めて遊んでいた城山小学校の児童ら千四百名は逃げることもできず焼死した

それはベスビアス火山の噴火でかつて死の都となったポンベイの廃墟を数千倍も上回る恐るべき熱とかわらの砂漠であった

人々はこの事実に目を覆ってはならない。

心してきけ平和はいかにしてあがなわれたかを三十三年たっていまもなおこのいやすことのできない長崎の悲劇は全人類への警告として広く長く語り継がれなければならない

昭和五十三年五月八日

追悼碑建立発起人代表 中島昭雄

城山小学校育友会会長 内田 伯

城山校区子供を守る会会長 山中善治

では、ここで城山町被爆した女性の証言をご紹介致します。

長崎市油木町で19歳のとき被爆。姉の一家7人は全員死亡。結婚後、昭和33年(1958年)に上京。現在、東京大田区に在住。

忘れられない、あの日 あのときのこと

1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、私は、爆心地から1キロメートルの長崎市油木町で、19歳のとき被爆しました。

あの日、朝から空襲警報、警戒警報が入っていて、解除になったのですが、とっても暑かったので、さぼって仕事を休みました。当時私は、城山町で兵隊さんの服の修理をする仕事をしていました。

女学生だった妹が、「松根油」をとって学校に出さなければならないから、一緒に山に行って、手伝って」と言うものですから、小学生の弟と3人で裏山に行きました。妹と弟は山の中に入って松根油をとっていましたが、私は小学校からの友だち・増田ユキさんとお母さんに、バッタリとしばらくぶりに会ったので、3人で畦道に腰掛けて話しているとき、「ピカドン」に遭ったのです。

原爆が落とされた時、3人で並んで座っていたのに、私はあっち、ユキさんはこっち、お母さんは向こうと、3人がバラバラに飛ばされて、気を失っていました。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」というユキさんの声で私は気がつきました。そのとき、何か、「パチッ」と大きな音がしたので、私はとっさに、「ユキさん動いたらダメ。飛行機に撃たれるから」と叫びました。すると、線香花火の最後にできる小さな火の玉のようなものが、まるで大雨のように「シャーシャー」と音を立てて降ってきました。

しばらくして、やっと我に返り、妹と弟のことが気になるので、山の方に走りました。山の中にいた妹と弟は無傷で、「姉ちゃん、何だろうか」と走ってきました。「あら、姉ちゃん、手から血が出てるよ」と妹が言いました。私の右手首が折れてブラブラしていたのです。しかし、痛くも何ともありませんでした。私の後をユキさんたちがついてきて、「あら、チョンちゃん。背中、焼けとるばい」と言われて、びっくりして背中に手をやると、手のひらに真っ黒に焼けた皮膚が、ペットリと剥がれて、ついてきました。

山が下の方からどんどん燃えてきましたが、何が起きたかわかりませんから、私たちは、ユキさんたちと谷間に隠れていました。あっちこっちの畑で仕事をしていた人たちが、大きな声で泣くでもなく、わめきちらしていました。夕方になって、火が収まってきましたので、私たちは山を下りて家に向かいました。

家のすぐ裏の竹山に着くと、びっくりしました。そこには、町から逃げてきたのでしょう、真っ黒い人たち、顔や体、それに皮膚がボロボロに垂れ下がった、ハダカ同然の人たちがギッシリと座り込んでいました。みんな、何もしゃべらず、黙って座っておられました。「すみません、すみません」と、その人たちをかき分けるようにして、私たちはようやく家に帰り着きました。あたりはもう薄暗くなっていました。父と母が、「おまえたちが行った山が燃えとったから、『3人とも死んだやろう。あきらめんと、いかんね』と言っていたところだったよ。生きていてよかった、よかった」と喜んでくれました。父は家の下敷きになって、体中ガラスが入って傷だらけ、母は畑で草取りをしていたので、手と顔が焼けて、顔にカボチャの種をいっぱいつけていました。

夜になると、私の家が燃え残ったので、町内の生き残った人たち、親戚の20人位が集まってきました。つぶれた家の中から米櫃を出してきて、ごはんを炊こうとみんなでいろいろ用意しているところに、飛行機がきて機銃掃射してきました。怖くなった私たちは、その晩は何も食べずに防空壕で寝ました。

私たちが山から下りる前に、従兄弟たち3人がお母さんに連れられて、壕に入っていました。はじめのうちは、「水、水」と3人が言っていましたが、そのうち言わなくなって…。3人とも、死んでしまいました。朝になって、その従兄弟たちを壕から出して、みんなびっくりしました。3人とも真っ黒でまん丸に腫れ上がって、目も鼻も口もなくなっていたのです。誰が誰やらわからないので、3人を並べて、「これが一番大きいからヒデちゃん、これがマサちゃん、これがユキちゃん」という具合でした。3人の手を重ねてやって、父が、水を汲んできて、ぼろ布で口のあたりに水をつけてやりました。泣きながら、「こんなことなら、水を飲ませてやればよかった。3人で仲良く天国に行ってくれよ」と言いながら…。みんなも代わる代わる水をつけてやりました。

そのうちに、町の方へ、たくさんの人が身内を探しに前の道を歩いてきました。すると、どこからともなく、敵機が飛んできて機銃掃射をして、私の目の前で4、5人が撃たれて亡くなりました。怖くなった私たちは、水を飲みながら壕の中に隠れ、夜になってから裏の竹山に行き、4日間、山で暮らしました。

食べる物がないので、片栗粉を塩でかいて食べました。いくらお腹がすいていても片栗粉の塩がきは喉を通りませんでした。4日目になって、下の方ではおにぎりが用意され、お医者さんも来ているという知らせがありましたので、みんなで山を下りました。私は、被爆から4日間、治療を受けていなかったので、手首の骨折と背中の大ヤケドのために、足から頭まで腫れて上がって、歩くこともできなくなっていました。その私を、従兄弟が背負ってくれて、私は家の庭ではじめて手当をしてもらいました。お医者さんかどうかわかりませんでしたが、3人の兵隊さんが次つぎに看てくれて、私の手の治療はここではできないと、背中のヤケドだけ手当してもらいました。私の背中は、表面はカサブタでふさがれ、その下には膿がたまっていたので、カサブタを剥がして、背中一面にヨードチンキをペラペラと塗られました。あまりの痛みで、私は壕の中に入り込んで、朝まで泣き明かしました。でも、そのとき、おにぎりと一切れのタクアンをもらいました。4日ぶりに食べたおのぎりの味は、今でも

忘れられないほど、おいしかったです。

5日目に佐賀から長崎医大にきていた従兄弟がきて、「塩水でヤケドが治るから」と、私の治療をしてくれました。母のヤケドはそれから1日で治りましたが、私は2日かかりました。それから、私の折れた手を治すために、従兄弟はリヤカーで長崎医大まで連れていってくれました。そこには、永井博士がお元気にいろいろ指図をされていました。先生は私の女学校の校医さんで、よく知っていました。「先生」と言いましたら、「おお、たいへんだったね。係の先生に頼んでやるから、がんばれよ」と言ってくださいました。長崎医大の治療は、小指位の小さな注射(おそらく麻酔でしょう)を1本肩にしただけで、骨を折ったり繋いだりするというもので、あまりの痛みで私は途中で何回も気を失い、そのたびに水をかけられました。

治療が終わった後は、一晩だけテントに寝かせてもらえましたが、そのテントの中は、生きたままの体にウジ虫がわいて、「たすけてー」とか「殺してくれー」とか、のたうちまわって苦しんでいる人がたくさんおられました。明くる日に私は家に帰りました。従兄弟が毎日私の家に通ってきてくれて、手の包帯を巻き変えてくれました。私の手は曲がってしまいましたが、おかげで私は、きょうまで生きてこられました。

でも、元気に治療をしてくれていた従兄弟は、被爆のときは長崎にいなかったのに、死んでしまいました。あのころは、元気な人が1週間後、10日後、1カ月後…。次つぎに死んでいきました。みんな放射能のためです。私の姉の家は、爆心地から500メートルのところにありましたから、一家7人はみんな死にました。最後に残った小学校1年生の姪が、体中にできた斑点を見ながら、「私ももうすぐ死ぬよ。死にたくない、死にたくない。私が死んだら、みんなのお墓参りをする人がいなくなる」と言いながら、とうとう死んでしまいました。

被爆者への差別

私は主人の転勤で、1958(昭和33)年に東京にきました。この年の12月に主人の母からレンコンを送ってきました。たくさんの立派なレンコンでしたので、ご近所に配りました。明くる日、ゴミ捨て場を通ると、私が配ったレンコンが、袋のまま捨ててありました。たまたま次女の同級生がご近所にいて、次女を迎えにきました。そのとき、その子が「おばさん、きのうもらったレンコンは原爆がうつるから食べたらいけないんだよ。晶子ちゃんも食べたら死ぬから、食べない方がいいよ」と言いました。それを聞いたとき、私ははじめて被爆者の差別を知りました。

また子どもが大学を卒業したとき、こんなことがありました。大学の先輩から「結婚してくれ」と言われて、子どもは喜んで先方のご両親に会いに行きました。その夜、子どもは元気に帰ってきましたが、いつもその日にあったことをいろいろ話す子が、詳しいことは何も言わずに「疲れたから明日話すね」と言って、部屋に入ってしまいました。その上、結婚を申し込んでくれたその先輩から「もうお帰りですか」という電話がきましたのに、子どもは居留守を使いました。いつも1時間でも2時間でも話をしていたのに、おかしいと思って聞きました。そうしましたら、子どもは泣き崩れてしまいました。そして、はじめは先方のご両親と楽しくお話ししていたけれど、先輩が席を空けた時、ご両親が、「あなたのお母さんは原爆に遭っておられるそうですが、お元気なのですか。うちの子と結婚して、奇形児が出来たりはしないですか」と、いろいろ聞かれたことを話してくれました。その後娘は、先輩には何も言わずに、身を引いてしまいました。「私も主人も好きで原爆に遭ったわけではない

のに、子どもたちにまで」と、ほんとうに悔しい思いをしました。

・・・今の時代、21世紀の現在でも福島に対する差別がありますよね。

そういう差別する人間は結局、現在形か未来形で「不幸」にまみれになる運命になる人間なんですよ。

差別しようという根性は、罪もない人を不幸に陥れようとする思考と一緒ですから、結局自ら不幸を招き入れる思考にもなってるんです。

ネガティブ思考、マイナス思考、不幸体質・・・。

当たり前と言えば当たり前ですよね。

因果応報、自業自得です。

さあ、まだまだ慰霊碑巡礼は続きます。

訪問時期

2016年GW